2017年8月31日木曜日

(書評)「仁義なきキリスト教史」と方言


誓って言うが、口論の時は理路整然と自分の主張を述べて、しかもそれが方言丸出しであったほうが怖い。
また、普段方言丸出しで怒鳴られたり、凄まれたりするほうが、標準語で怒鳴られるより数段怖い。
方言の別は問わない。たとえそれが、親しみやすさが高い東北弁や、おっとりした京都弁であっても。
その点、この本は怖い。何が強いって、広島弁で凄むヤクザしか出てこないから。広島弁マジに怖い。

登場人物はキリストを含め、全て広島弁のヤクザである。
キリスト教は、キリストとヤハウェとの関係性を発端とした、本当に微妙な差異しかない宗教観の相違から、血で血を洗う抗争へと発展する。

彼らの価値観の相違は、もうほとんど無視してもいいほど微妙すぎるいざこざから始まり、やれプライドを傷つけられたとか、筋を通したとか通さなかったとかで、やたらとモーダル化して表現し、指摘しあいながらお互いを責め合う。故に、抗争になる。これがいわゆるヤクザ世界で言う「仁義」というやつか。

実際、キリスト教の歴史は、その始まりが太古の昔ゆえ、神話の世界感と同様になり、ファンタジー的な色合いが濃い。
ファンタジーなので、どの聖書にも人間同士の感情の交わりや衝突といった機微について描写があまり豊かではない。フロドとアラゴルンが、なぜ固い友情で結ばれるに至ったかがよく分からないのと同じように、ここは勝手な想像をするしかない。
この本「仁義なきキリスト教史」では、この想像するしかない局面を全て「仁義」の一言で片付けてしまっている。
ヤクザ抗争よろしく、とにかくよくわからない「仁義」という価値観、それにもとる人間の行動が着火点となり、宗教戦争に至る。この本では、シュールなヤクザ組織の衝突と宗教観の衝突とを同一視して、キリスト教の争いの歴史を実にユーモラスに描いている。

ギャグ描写がとにかく軽妙で面白おかしく、そのおかげでキリスト教の歴史が、なかなか頭に入らない。その一方で、広島弁の運用方法、とりわけ、ヤクザにおける広島弁の運用方法が、しっかり頭に入る。
だからといって、この本を読む事で得た広島弁を、広島出身でもない人間が使うのはリスキーである。それは、関西出身でもないのに関西弁を使う人物に遭遇した時の、あの寒々しさと同じ事になる。方言という点からも、この本で得られる知識は劇薬といえよう。