2010年6月7日月曜日

つい「しっかりやる」といってしまう自分(書評)

仕事でつい思わず、「きちんとやる」「しっかりやる」こんな言葉を使うことがある。上司にプロジェクトの進捗と残作業を報告する時などが多い。
この本には、こんな尺度の曖昧な言葉に異議を唱えている。
本を読んだ感想などを書いてみようと思います。

この本、最初の印象としては、正直読みづらいと感じた。文章には括弧書きや、モノローグ的が書かれているようなところが散見され、まるで携帯小説かティーンズノベルを読んでいるような気分。「だってそう思うでしょう」と、著者が読み手に対して語りかけるような文体です。ちょっとなれなしい。
ただ、人に伝えるという事の非常に本質的な考察については、納得させれるし、考えさせられもする。著者は広告界でコピーライターという職業を通して、言葉と真摯に向き合いたいと考えている。そして、その思いが伝わってくるから、自分はかなりぬるく軽々しく言葉を使っていたなと身につまされる。
人にものごとを伝える時に、まず著者がやらなければならない事として挙げるのは、「主観に左右される言葉を使わない事」。
悪い例として、この「きちんとやる」「ちゃんとやる」「しっかりやる」という言葉を挙げ、これらを使うべきではないと指摘している。それは、聞く人の主観によって「やる」という程度がどんなふうにもとれてしまうから。そして、そもそもこんな言葉は中身のないカラ言葉だ、と著者は言うのだ。
なるほど、どこかの国の元首相が連発していた「しっかりやる」には、国民に良いようにとってくれという甘えの言葉であり、なんの約束もしていないまさにカラ言葉。曖昧なので、とらえ方によっては「なにもしないとは言っていないでしょうが。ネガティブに取るほうが悪い。」と言っているようにもとれる。まったくひどい言いぐさだ。
さらに著者は「受け手の判断の尺度をあらかじめ明確にする」ことも大事だとしている。受け手も伝え手も、おなじ尺度での判断ができる言葉を使わないと、物事は伝わらないというのである。
元首相の例で言えば、「しっかりやる」の連発で国民を煙にまき、混乱しているところに、さらに「腹案はある」である。これでとどめをさされ、いよいよ国民の空いた口はふさがらくなった。なんの情報も提供せず、受け手の判断の尺度が明確になるどころか「まぁ勝手に想像してくれ」とまで言い切ったのである。よほど画期的なアイディアでもなければ、まず口に出せない言葉でもある。
結果的には普天間の問題は振り出しへ。 これが我が国の首相なのか・・・と頭を抱えるしかなくなった瞬間である。この経験はこれからの人生にトラウマとして影を落とすことでしょう。もうこれは国民に対する国家レベルのDV。
・・・というのは言い過ぎとしても、一国の首相の言葉、自分本位で尺度の曖昧な言葉によって、これほどガッカリさせられた経験を持つ人種は、世界中で一体どれぐらいいるのだろうか。
元首相の評判は予想通り急降下し、当人はあえなく職を失う事となった。
著者がいう通り、言葉って本当に怖い。元首相がまさにそれを体現してくれたわけです。
軽々しく言葉というものを使っていた自分に反省しつつ、しっかりやっていきたい「言葉の技術」を高めなければならない、そう感じて読み終わった。
この本は他にも、「受け手と同じ言葉を使う」「受け手の状況を把握して、ベネフィットを提案する」という事がものごとを伝える時には大事だと指摘。後者は、単純化して言えば、受け手が知りたい事を言うという事です。
当たり前の事が書かれているのが多いのでしょうが、ではなぜ、コミュニケーションではそうしなければならないのか、それが言葉を尽くして語られており、納得感が高い。コミニュケーションの基本がすっかり腹落ちし、最後にはすがすがしい気分にもなる、そんな良書だと思います。